ニュースNo.4「平和憲法への思い」&「編集後記」

「九条と祈り」

私は毎日、朝な夕なに世界平和のお祈りをしています。「世界人類が平和でありますように・・・」祈りというのは、相対世界のものではなくて、絶対世界のものです。祈りに懸引きはありません。相手がどうであるとか、状況がどうであるとかに一切かかわりなく、ただ祈るのです。祈るとは神と一体になる行為です。言い換えれば、愛そのものになる、調和そのものになる行為です。
 九条について最初マッカーサーは「紛争解決の手段」のみならず、「自己の安全を確保するための手段としてさえも」戦争を放棄するべきだと考えていました。こうなると、もうこれは絶対の世界です。これを現実に引き戻したのは、九条起草責任者のケーディスです。自己の安全を確保するための手段としての戦争、つまり自衛戦争まで放棄すると言うのを憲法に明文化するのは現実的でないと考えた彼は、この部分を削ったのです。
 それからもう一つ、憲法改正特別委員長だった芦田均が九条の二項の冒頭に付け加えた「前項の目的を達するため」という一文があります。これもケーディスの場合と同様、絶対的位置から、現実対応という相対的位置に引き戻すものだったのです。この文言が付加されることによって「国際紛争を解決するため、陸海空その他の戦力は、これを保持しない。(しかし自衛のためなら、その限りではない。)と、暗に読めないことはないという含みができたわけです。
 しかしそうであっても尚九条には祈りに通ずるものがあります。九条を現実に対応させるため、少しお面を被りはしたが、その底に流れるものは祈りの精神です。GHQやマッカーサーの意図はどうであれ、あの当事の日本人の大半の人の願いを代弁したものであったはずです。もう戦争は絶対「否」という切なる思いが結晶化されたものが、この九条なのです。民衆の思いは天に通じ、GHQという超権力によって天から降ろされたのです。それは農地解放と全く同じです。もし憲法作成も日本人の手に委ねられていたら、かえって中途半端な自分たちを裏切るものとなったでしょう。
 日本は古来、大和の国と呼ばれています。大和(やまと)とは大和(ダイワ)です。つまり大調和の国ということです。その大調和の国が、明治以来、急速な近代化の中でバランスを崩し、近隣諸国に多大な迷惑をかけ、世界を巻き込む戦争を引き起こしてしまいました。しかし完膚なきまでの敗戦により、全てを失った日本はそのカルマを浄化され、天より自ら進む道を示唆された。それが霊的に見た憲法九条の意味だと考えたいのです。
 一般常識的に見ても、この憲法は素晴らしいものです。九条的な流れは、一九二八年、パリで締結された不戦条約です。これは国際紛争の解決は戦争によらず、すべての平和的手段によるべきことを約した条約で、九条の一項に実によく似ているのです。また九条の起源となっているのは一九三五年のフィリピン憲法とされています。
 当の九条の作成に際しても、その原案を作ったのはユダヤ人のケーディスですが、彼はニューディールの時代に大学生、大学院生、法律家と歩んだ生粋のニューディーラーというべき人物です。
 そんな訳でこの九条には世界の体験が生かされているのです。日本本来の大調和の国たらんとすれば、この九条の精神を生かし、祈り心ともいうべきものによって支えていかなければならないと思っています。
 世界人類が平和でありますように。(麻野吉男)

編集後記

山尾三省、という詩人がいた。屋久島で農業に従事しながら詩を書き続け、2001年に胃ガンで亡くなった。その山尾三省が死の2ヶ月ほど前に書いた詩に次のようなものがある。

「劫火」
 南無浄瑠璃
 われら人の内なる薬師如来
 われらの 日本国憲法第九条をして
 世界の すべての国々の憲法第九条に
                 取り入れさせたまえ
 人類をして 武器のない恒久平和の基盤の上に
                       立たしめたまえ

 死の間際に創作された、たったこれだけの詩。
 浄瑠璃光とは薬師如来が発する病を癒す仏の光のことである。詩人は「戦争」を人類の病と見立て、その病の治癒を仏に祈る。しかもその祈りは「われら人の内なる」仏に向けられる。詩人は私たち一人一人の心のうちに仏が宿っていると考えていたのだろうか。
 わが子を思う母の愛平和憲法が発布された喜びを生徒に伝えた教師の心。悲惨な戦争体験から、二度と過ちは繰り返さぬと誓ったかつての兵士たちの決意。考えてみれば、これらはみな「戦争」という人類の病を癒す「われら人の内なる薬師如来」の「浄瑠璃光」なのかもしれない。
  
 今月の「平和憲法への思い」のタイトルは「九条と祈り」である。思いを寄せていただいた麻野さんは、平和九条は「民衆の思いは天に通じて天から降ろされもの」と指摘されている。また九条を「祈りの通ずるもの」とされている。
 
 私たち人間は仏の心を持つことができるが、同時に人と争う修羅の心、果てしない欲望を抱く餓鬼の心も持ち合わせている。さまざまな面を持ち合わせている私たちの心を高めるのは、「祈り」だ。そう考えてみれば、私たちが住まうこの熊野の地は、古来からの「祈りの地」ではなかったのか。
 神仏に祈るにあたって、わが身の不幸を祈る人はいない。神や仏は、人の幸せを願う気持ちが結晶したものなのかもしれない。だとすれば「祈りの地・熊野」は平和憲法を守る運動に相応しい場所なのだろう。
熊野本宮大社