5・13 輝け!憲法9条 平和のつどい

KumanoPeace2006-04-28

和歌山県民文化会館 午後1時30分開演
澤地久枝さん
いま、九条への思いを熱く語る
 ― 未来への人と人の絆 ―

澤地久枝さんへの思いと期待

澤地久枝さんが和歌山に講演に来られるという。和歌山くんだりまで・・・と私は彼女の重篤な心臓病のことを気遣ってしまう。確か三回くらい、命に関わる大手術を経ておられるはず。しかし彼女の和歌山入りは二年半前にもあった。旧南部川村が、南部町との合併前、この村として最後の文化活動と称して澤地久枝講演会を企画した。私はその十年ほど前、芦屋で彼女の講演を聴いて以来だったので、もう一度お元気な姿に接し、真摯な話し振りに触れたいと思って、バスと電車を乗り継いで南部駅に降り立った。会場までは三キロほどか、と私はトコトコ歩きながら「澤地さんは、こんな所まで、しかもこんなちっぽけな村にわざわざやって来られるのは、余程持病の調子が良いのかしら?」と考えていた。
しかしその予想に反して、彼女の健康状態は予断を許さないものだったのである。主治医からはすべての講演会を取り止めるよう厳命され、びっしり詰まっていた予定をキャンセルしたが、ここ南部川村にだけはどうしても来たかった、来なければならなかったのです、と言う。ここには返さなければならない恩義がある・・・その理由は省略して、と多くは語らなかったが、その決意には並々ならぬ想いが窺(ウカガ)われた。彼女の律儀な、きっぱりとけじめをつける生き方が迫ってきた。

澤地久枝さんの代表作はなんと言っても『二・二六事件の妻達』(72年)ISBN:412000306X。十数年の記者生活もさることながら、五味川純平の『戦争と人間』を陰で支えた、膨大な資料集めと整理に携わった経緯が、彼女のノンフィクション作家としての資質と根気を育てたに違いない。『二・二六・・・』で追う歴史の表舞台に現れない、が歴史の成り行きを支えた女達の、瑣末(サマツ)な日常の細部とその後の生き方を、とことんインタビューで掬(スク)い上げた強靭な精神力に圧倒される。

野太い精神力と繊細な潔癖さ

澤地さんは少女期を満州で過ごした。満州生まれの私は、その点でも近親感を持つのかも知れない。何かで内地の人達との感覚の違いを書いておられた。知人が、スミレがそこら一面に咲いたから見にいらっしゃいというので行ってみたら、チョボチョボとほんの畳一畳ほどのものだったので拍子抜けしたと言う。辺り一面といえば、満州育ちであれば見渡す限り地平線まで続いていると思うではないか、そうだ、そうだ、その地平線に、真っ赤なでっかい太陽がギラギラと落ちていくんだ、と内地のチマチマした感覚に辟易(ヘキエキ)していた私は大いに共感して嬉しくなったものだ。彼女の野太さと根気は、おおらかな大陸育ちの産物ではなかろうか?

しかし十数年前、芦屋で彼女の講演を聞いた時は、一言も満州時代には触れなかった。「私は勇ましい軍国少女だった」と苦い告白をどこかで書いておられたので、満州は彼女の触れたくない部分か?と思ったりもした。しかし南部川では、はっきりとこのセリフで若き日の「過(アヤマ)ち」を告白し、「今こそ言っておかなければ」、と少なくなる戦時体験者としての「語る義務」を吐露した。銃を持って敵を殺(アヤ)めたわけでもないのに、時代の波をかぶった当時の当たり前の姿を、「時代のせい」にしない潔(イサギヨ)さ。あくまで自己の責任を問い、その償いをするかのように、物静かではあるが熱っぽく語る姿に、痛々しいほどの彼女の潔癖さが滲んだ。けなげな十五歳の「軍国少女」の姿が重なる。十歳だったノーテンキな私の戦時をつくづく幸運に思う。

それはまだ「九条の会」発足以前のことであったが、芦屋の時と比べて遥かに厳しい語調になっていたことに、私は時代の危機と、底に潜む暗さが濃厚になった、ここ十数年の推移を感じた。「九条の会」発起人の一人になられたのは、個人の健康上の理由などは言ってられない、並々ならぬ決意があったものと想像される。今回の講演は、静かな語り口に、切羽詰った、今までにない激しさが展開されるのではないだろうか。