大和魂について(壱)

「日本はむかしから雄大さのない国である。西郷は雄大でありすぎた」。内村鑑三著『代表的日本人』の一節である。雄大でありすぎたが故に、凡人の我々からは茫洋としてとらえどころのない、にもかかわらず、たまらない魅力を持って屹立する西郷隆盛像について考える。
 彼の人間的魅力については、豊前中津に永く語り伝えられた次の言葉が、その一端を鮮烈に表している。増田栄太郎という一人の若者が登場する。
 西南の役に敗れた西郷は、軍を解散し豊前中津の若い氏族六十四人にも帰郷をすすめた。もちろん隊員一同依存はなかったが、隊長の増田一人、「踏みとどまる」ことを表明する。
 増田栄太郎曰く
「かの人は誠に妙である。一日かの人に接すれば、一日の愛生ず。三日かの人に接すれば三日の愛生ず。しかれども予は接するの日を重ね、今は去るべくもあらず。この上は善悪を超越して、かの人と生死を共にするほかない」
 司馬遼太郎は『翔ぶが如く』のなかで、この言葉を次のように解説している。
「増田栄太郎というこの若者は、西郷の弁舌に打たれたわけでもなく、西郷の文章を多く読んだわけでもなかった。彼は西郷にじかに接しただけのことであり、それでもって骨の髄まで染まるほどに西郷の全体を感じてしまったのである」
 明治新政府は屋台骨をゆるがすような反政府の乱の首謀者の銅像が上野の森に立てられ「西郷さん、西郷さん」と敬愛されている事実は、西郷のもつ人間的魅力がいかなるものかであったことを端的にものがたっている。
 本題に入ろう。前期の著作『翔ぶが如く』の中で、司馬は次のように記す。
 一方で西郷はいう。「世間では自分を戦さ好きというそうだ。だれが戦さを好くものか。戦さは人を殺し金を使うもので、容易に戦さをしてはならぬ」 他方で「戦の一字を忘れるな」と西郷はよくいった。「国が陵辱されるにおいては、たとえ国も人も斃れるといえども、正道を踏み、義を尽くすのが政府の本務である。ところが政府の高官たちは、平素、金穀や利財のことを議するときだけは英雄のようだが、いったん血の出るたぐいのことに臨むと、頭を一処に集め、ただ目前の平安だけを謀るのみである。戦の一字を恐れ政府の本務を貶めるようでは政府は商法支配所であって、政府ではない」
 前段では非戦を説き、後段では矛盾するような、好戦的とも受け取れる言辞を吐いている。西郷は維新後の政府と国家にどのようなものを求めていたのであろうか。
「西郷は国家の基盤は財政でもなく軍事力でもなく、民族が持つ颯爽とした士魂にありと思っていた。民族に内在する勇猛心をひきだすことによって、奈良朝以来あるいは戦国このかた太平に馴れた日本民族に生気を与え、できれば戦国期の島津氏の士人が持っていた毅然たる倫理性を全日本人のものにしたいという願望があった。
 国家というものは高き見えざるものでなりたつ。これを失えば品位の薄い国家になる。そういう国家を作るために、われわれの先人たちが屍を溝壑に晒してきたのではないと西郷はいうのである」
 ちなみに、戦国期以来薩摩藩と島津氏の士人が養ってきた藩風士俗は次のようなものであった。
「薩摩にあっては、侍が侍がましくなるには2つのことだけが必要とされてきた。死ぬべきときには死ぬことと、敵に対しては人間としてのいたわりや優しさを持ちつつも闘争にいたればあくまでこれを倒す。これ以外の要求は薩摩の士風教育ではなされていない。学芸の教養はあればあったでいいが、必要とはされていなかった。むしろそれを身に付けているため議論の多い人間になったり、自分の不潔な行動の弁解の道具にしたりすることがあれば極度に排斥された。たとえ無学であっても少しも不名誉にはならない。さわやかな人格でないということが、薩摩にあっては極端に不名誉なのである。」
 誰の言葉であるかは失念したが、「活力が旺盛なとき、必ずやそこに存するのものは、熾烈な理想精神である。」 今、理想精神を云々すれば、「何を青くさい」の一言で片付けてられそうな風潮である。実に悲しむべきことである。
 表題の大和魂については、本居宣長の歌に
   敷島の山と心を人問わば朝日ににほふ山桜花
とある。この“朝日ににほふ山桜花”を、日本及び日本人の理想的精神のあり方と見立てて、政治社会、戦争と平和、その他の問題について、しばらく考えてみたい。