『リトル・バーズ』

KumanoPeace2006-04-17

映画『リトル・バーズ―イラク戦火の家族たち』(綿井健陽監督)をみてきた。
2003年3月のイラク攻撃直前から1年半の、イラク(主にバグダッド)に起きたこと、そこに暮らす人々の声を集めた記録フィルムだ。
ストーリーもナレーションもない。そこに広がる光景が、淡々と映しだされる。
スクリーンの前で私たちは「目撃者」となる。
 
今、まさに空襲によって町が壊され、家族や隣人が、腕を、足を、光を、命を奪われてゆく。それをみつめるしかない人たちを「目撃」する。それでも、それを受け入れて生きてゆくしかない彼らの呟きを、うめきを「聞く」。
そして、イラク人や米兵に向けられる綿井さんの問いかけと、それに応える彼らの言葉は、いずれもがスクリーンの前の私たち自身に向けられている。逆に、カメラに向かっての彼らの問いかけもまた私たち「日本人」へのものである事をかんじる。
彼らの問いは率直だ。「なぜ原爆を落とされた日本が、爆弾をおとす側についているのか」
「なぜ日本はイラクを破壊するのか。」。
彼らはこうもいう。「私たちは日本の支援を歓迎します。どんな国の支援も歓迎します。ですが、軍隊は間に合っています。どうかアメリカ軍と一緒には行動しないで下さい。」と。

この「問い」に、「請願」に、どう応えればいいのだろう。そこ(現場)にいる彼らからそこにいない私たちへの問いに。「知ったつもりでいること」に比べて「想像しきれないこと」のほうがはるかに大きいことを忘れてはならない、とおもう。
攻撃される側からすれば、「戦争への支持」を表明した時点で「日本」は「侵略者」なのだ。直接武力行使しなくても「一味」であることに変わりはない。

「日本人」のおおくは今この国が戦争(侵略)しているとおもっていないようだ。私もそうだった。まだ、「巻き込まれていない」とおもっていた。でもどうやら違うらしい。この前の戦争もそんな風にして始まったらしい。
私たちはすでに「戦争を支持する」政権を「支持する」という「意思」を示してしまった。
少なくともイラクの人たちにとってはそう映っている。
いま私たちがすべきことは理想や建前を掲げることよりも、行動で「戦争しない意思」を示す事なのではないか。そうおもうこの頃だ。
 
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